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日系とは何か

2003年11月21日

サンパウロ在住 美代賢志

 ブラジルに住んでいると当たり前のように毎日聞かされて空気のように自明のことと思い込んでいるのだが、やはり、「日系」という言葉は意味するところをもう少し検討して後に使うべきものではないかと思う。

 例えば日系文学。日系社会。日系人。

 日系とは実に便利な言葉だと思う。日本在住読者の方々でさえ、日系文学と聞いて「何のことかわからない」と感じる人はいないだろう。しかし、それを実際に説明できる人も少ないはず。なぜなら、当事者である「日系作家」たち自身が、その問いに答えていないからだ。もっと踏み込めば、彼ら自身、「日系文学がいかなるものか」を理解してはいないと思う。これを問えば十中八九、こう答える。

「ブラジルで移民が移民を題材に書いた文学」

 どうだろう。

 もし、「日系文学」なるものが「ジャンル」であるとするなら、それは「作品で語られなければならない」はずである。作品で語るなら、作者が誰であろうと関係ないのではないか。つまり日系文学とは、「ブラジル移民を題材に書かれた文学」か。では日本の作家が移民を題材に書いた小説、石川達三の「蒼茫」などは日系文学だろうか。

 本音を先に言えば私は、日系文学を定義づけるのは「視点」であろうと思う。もちろんそれは、「移民の視点」であってもかまわない。ただ、「お互い、苦労しましたなぁ…」という背中のさすりあいだけは止めて欲しいという気はする。これは視点ではなく主張であると思うからだ。それも視点すら定まらない内向きの主張。この点、文学の中でも俳句は、日系文学として充分語るだけの水準にあると言えるものがあると思う。どうしても移民の心情を詠ったものが中心になるが、それでもブラジルの熱気、空気、色彩が織り込まれたものが多い。

 そして日系というものの「正体」を存分に意識しているのが、日系美術だ。それは、日本的な色彩であったり日本的な描画法であったり様々だが、ブラジル美術に影響を与え、与えられながら傑出したジャンルを築いている。日系画家らにもし弟子がいるとするなら、彼らがブラジル人であったとしても「日系美術」になるだろうと思う。つまり彼らは、「日系」というものの中身を、ブラジル人をはじめとする閲覧者に明示できるまでに消化している。

 さて。ブラジルには、「ニッケイ新聞」なるその名もズバリな新聞がある。私がそこで働いていた当時は、どんなに魅力的なブラジルの話題であっても、社会部記者が「日系人か日系人の多い地域の話題、日本とブラジルに関する話題」に関係のないものを取材して紙面に掲載することはできなかった。いや、取材はできたものの、所属する「社会面」には掲載されなかったという点で、事実上取材できなかったということである。つまり、「日系の新聞らしさ」とはそういう「題材」にあるのであって、「日系人(日本人)の視点」にあるわけではなかったと言える。もっとも、当地の日本語新聞がこんなスタイルから脱却するのは、そう遠くないかも知れない。それが、ここブラジルの一世を中心とした読者に喜ばれるかどうか、また新聞として意義のあることかどうかは別問題。それでも、私は期待している。

 宇江木リカルド氏から著作が郵送されてきて、以上のようなことをツラツラと考えた。彼の著作は私好みの文体ではないのだが、キリリとした視点で貫徹されていることは分かる。おそらく、彼の生き様自体がそうなのだろう。それを思うと、自分の視点を追及する宇江木氏の創作活動には、好感を超えて畏敬すら感じる。後世、彼独の視点が「日系文学」と呼ばれるものになるのかどうかは分からない。もっとも、彼はそのようなカテゴリー分けを歯牙にもかけていないだろう。

 余談だが、私の娘は辞書的にいえば、「二世の日本人」であっても「日系二世」ではなく、また「ブラジル人」であり「日本人」でもある。もちろん、日本語は全く話すことはできない(で育つはず)。我々が日系とは…などとほざいているのと同様、国際化の中で日本人自身も、日本人という存在を今一度考える時かもしれない。明治以前、国と言えば「オラが藩」だったことを思い出すのも悪くない。

この建築は何系だ?(笑)

 

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