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蛮人堂発 往復書簡 : 在日外国人との共存とは |
静岡の蛮人堂さんから「談語フォーラム」へ書き込みいただいた内容を、蛮人堂さんの許可を頂き掲載いたしました。日本人の率直な意見として、むしろポルトガル語訳したいほど率直なご意見です。往復書簡の中では、在日日系人問題の根底、つまり「日本人とは何か」ということを考える入り口も、チラリと提示してあります。ここに掲載したような意見はメインストリームにはなりえないのですが、それだけに、こうして掲載する価値があるのだと考えます。
2003年4月7日 |
静岡県在住 蛮人堂さん |
サントス在住の友人の以前からのリクエストだった、「潮見坂付近の海の写真」を撮りに行きました。サーフィンのメッカみたいなところで、平日なのに数人のサーファーが。
愛知県との県境付近の海岸へ降りて行くと、以前には無かった看板が。地元の消防署が立てたようで、その内容は日本語・英語・ポルトガル語で「車を燃やさないで下さい。」と書いてあった。その付近は民家が無く、幹線道路から外れて海岸と畑があるだけだ。昼間でも人通りは少なく、まして夜中には人など通らないようなところだ。
その付近では、以前から夜中に車両火災が多発していた。当然、事故では無い。何者かが不要になった車を、燃やして処分しているらしい。しかも、それは外国人だ!という地元民の目撃情報もあったようだ。こう言うと、すぐに多くのブラジレイロから反発があると思うが、愛知県豊田市の保見団地でも、以前は車を燃やしたりして問題になったことがあるように記憶している。不要になった車、しかも犯罪に関係した車を処分しているのでは?という見方もある。
以前、美代さんが、ブラジル人のキレイ好きを書かれていましたが、ワシが思うにブラジル人のキレイ好きは「自分の身の周りがキレイならばゴミの行方は気にしない。」極端なことを言えば、車の窓からゴミを捨てて町が汚れても自分の車がキレイならば良い、というような感じがしてならない。自分さえ良ければ良い!というようなところが無いだろうか?ワシの部屋は汚い。とても汚い(笑)しかし、ゴミは分別して決められた日にしか出さない。ブラジル人の友人の奥さんは大変なキレイ好きだが、ゴミを身の周りに置くのを許さない。分別?ゴミの日?関係無い!「ブラジルではいつでも、どこでも良いのよ!」ここは日本だぜ・・・・。
我々ならば、車が不要になったら金を払ってでも業者に頼んでキチンと処分してもらう。当然、納税証明も廃車証明も貰う。なぜこんなことが出来ないのか、車を燃やす輩に尋ねてみたい。消火活動の費用だってタダじゃない。燃えた車の処分費用だって市役所が払っていることと思う。それよりも、こんなことが続くことで治安が悪くなることを危惧するのだ。軽犯罪に慣れてしまうこと、これは凶悪犯時をも招くということであり、遠くない将来、サン・パウロやリオ・デ・ジャネイロのように、安心して外出出来ないような社会になりかねないということだ。
今、日本の警察の検挙率の低下が問題視されているが、警察官の資質が低下したということではなく、犯罪が多くなり過ぎて手が回らない「飽和状態」なのだ。窃盗や暴行など比較的軽い犯罪が急増し、犯人は低年齢化、そして外国人犯罪者が急増している。中でも中国人とブラジル人の増加が著しいようだ。 以前「日本の警察はバカだ。」とか言って、警察から逃れたことを自慢しているブラジル人が居た。八百屋の店先に並ぶ商品を見て「なんで皆持って行かないの?」とか言うヤツも居た。帰国する日に強盗をして、その足で空港からブラジルへ逃げたヤツも居た。 数年前、浜松で「人種差別を受けた!」として、ブラジル人の女性記者が日本人の店主を訴え、勝訴したことがあったが、我々の危惧も理解して欲しい。勿論、人種差別は悪いことに決まっているが、被害者意識だけでなく、当該店主がなぜ人種差別に至ったのか、その経緯も取り上げるべきだと思う。日本人の目からすると、自分の正当性を必要以上に強調し、自らの落ち度はほとんど認めない外国人が多く居るように思う。国民性の違いだと言えばそれまでだが、たぶん、多くの日本人はこの点でも大きな不快感を覚えると思う。
いくら外国人が多くなったとはいえ、ここは日本であり、日本の法律、生活習慣が優先されるべきである。その「枠」からはみ出してまで、ブラジル人としてのアイデンティティーを主張するならば、残念ながらワシはそれらを排除する方向へと活動するであろう。
2003年4月8日 |
サンパウロ在住 美代賢志 |
日本人とブラジル人は、交渉の前段階から全く異なる考え方だと思います。つまり、ブラジル人が「注文(あるいは要求)するだけならタダ」と考えるのに対して、日本人は相手の懐を探って(気を廻して)「妥当で合意可能な条件を提示する」。
例えば、「給料上げてくださいよ。そうしたらもっと熱心に働きます」と毎月のように言うブラジル人。給料が上がらなくてダメ元だし、上がったら上がったで、それは「雇用側が決めたことであって合法的行為」。結果として、雇用側が期待したほどに働かなくても、「給料上げたのはそっちでしょ」で終わり。
日本はこうしたブラジル的な思考に対して不慣れだったこともあり、優柔不断に過ごしてきた気がします。こんな話はブラジル人だって、「無茶な要求」というのを分かった上で言っているのです。だからその場で、即断して却下すべきなのです。そうすれば、「あの人は道理に従う人だから」と、次からは言ってきません。この「人」を、「会社」や「国」と言い換えても同じです。だから、「考えてみましょう」何て言うと、「なんだ、抜け道があるのか」などとナメられるのです。
しかも、「外国まで来て苦労して…」などと甘やかす(あるいは同情する)人がいるので始末に終えません。本当に苦労しているのは、「日本にもどこにも出ることのできないブラジル人」かもしれないのです。何ならブラジルで、「査証を自由に発給されれば、外国で就労したい人」がどの程度の割合でいるか、統計を出すと面白いと思います。つまり日本人と違って、外国で稼げるならそれに越したことはないと考える人は多いのです。デカセギは奴隷船よろしく、首にワッカをはめられて連れてこられた訳ではないのです。
それに工場では、「日本語を話せる人を中心に」などと言って、能力は二の次。日本語ができて、かつ頭脳明晰な人材が、大挙して日本に行くでしょうか(もちろん、そういう人も中にはいますが)。日本語中心で面接するのは、その点で大変危険です。むしろ能力、それから日本という国や制度、国民、文化に敬意を払ってくれるかどうかで選ぶ必要があると思います。つまり、「コスト」というものを、その人の生活全般にまで拡大して考える視点です。ゴミ分別ができないブラジル人というのは、いくら日本語が上手で工場でよく働くとしても(通訳のコストを削減できるとしても)、地域社会という視点では余計なコストがかかっているということです。こうした外国人労働者のコスト計算も、これからの企業や社会には必要だと思います。
日本人の子孫、というだけで日本人とうまく共存できると考えた入管法改正も滅茶苦茶ですが、「移民=苦労した人」やら、「出稼ぎ=外国まで来て苦労している人」などという画一的な見方が、一日も早くなくなることを願ってやみません。それが基礎となって、互いが対等に、かつ尊敬できる関係になると考えます。
「移民やデカセギに対する同情や賛歌」といった視点は、日本で発行されるデカセギ向けポルトガル語新聞や、ブラジルで発行される日本語新聞にも、責任の一端はあると考えています。これに関しては改めて、書いてみたいと思います。
2003年4月8日 |
静岡県在住 蛮人堂さん |
美代さんの返事を読むと、目から鱗というか、初めて気づくことも多いです。有難う御座います。
ブラジル人と付き合うようになって8年余り。彼等を理解しようと自分なりに努めて来ました。それは、新しいことの発見の連続であり、好奇心旺盛な自分にとっては大変楽しいことでもありました。ブラジルに関するテレビ番組やHPを見て、それらについて彼らに尋ね理解を深めるようにしていました。また、自治体でも最早ブラジル人を始めとする日系外国人は無視出来ない存在となり、公的機関などにはポルトガル語の表示も増え、学校でも就学中の日系ブラジル人の児童、生徒の為に、特別に日本語やポルトガル語の補習を行うところもあります。国際化が叫ばれる昨今、各自治体にはボランティアによる「国際交流協会」などが設立され、在日外国人との交流を通じて相互理解に努めています。ただし、ワシに言わせると「国際交流協会」の活動は「日本人が外国人を理解する」という、「一方通行の国際交流」だ。
以前から不思議というか、不満に思っていたことがある。我々、日本人は在日日系人を理解しようと官民上げて努めているのに、肝心の日系人自身は日本人と日本社会に対してほとんど興味を示していないような気がすることだ。多くのブラジル人は自分の国や国旗が大好きで、自国の自慢はするが今現在生活している日本については否定的な意見も良く耳にする。ましてや、日本の歴史や文化、習慣に興味を持つ者などはワシの周りには皆無に等しい。逆に、欧米系の人達は日本の歴史や生活習慣に興味を示し、積極的に日本や日本人を理解しようと努めているように思われる。この違いは何なのか?自分の中での謎だったが、答えは単純な事だった。その違いは来日の目的の違いである。欧米人の多くは日本という国の文化や歴史、気候風土に惹かれて来日するわけで、逆に日系人の多くは単なる「出稼ぎ」であり、文化や歴史などは関係無い、金が稼げれば良いのだ。もし、日本の歴史に興味を示すとしたら、それは自分の父母や祖父母の名前が戸籍が残っているかどうかということぐらいではなかろうか?
このように気づいた時、我々日本人が在日ブラジル人に対してこれ以上の配慮は必要無いように思うようになってきた。同情を中心にした交流はブラジル人を甘えさせ、つけあがらせ、治安の乱れを助長して来たように思う。これからは積極的に日本人社会の「枠」にはめ込み、はみ出る者は排除することさえ必要ではないかとさえ思う。
時折聞くブラジル人やペルー人の不満の中に「日本人はアメリカ人やヨーロッパ人には優しいが、日系人には冷たい。バカにしてる!」というのがあるが、自国の文化や歴史ばかり自慢して、日本人を理解しようと努力せずに否定ばかりしてる輩には敵意を、逆に日本人を理解しようと努め者に対して好意を持つのは当然のことだと思う。
2003年4月8日 |
サンパウロ在住 美代賢志 |
国際交流というのは本来、相手に知ってもらいたいというのが底流にあるのだと思います。ところが日本の交流は、どうも「相手を知りたい」というのが先に立ちすぎているのでしょうか。知ってもらうためにはそもそも、自国の文化についてよく知っていること、あるいは全く無知な人に対して説明できるだけの「伝える技術や手段」が必要になります。そのために「日本人がポルトガル語を覚える」というのが、蛮人堂さんにとってどこかチグハグな印象を与えるのでしょう。本来なら、「日本の良さを知ってもらう一環として日本語を覚えてもらう」のが筋なんでしょうね。
その魅力を伝えるだけの知識、自国に対する理解が、多くの日本人にあるのかどうか。そして在日ブラジル人、つまりデカセギをめぐる諸問題というのは、日本社会を映した鏡だということを、我々日本人が自分たちのこととして忘れてはならないことだと思います。 これは、次のようなことです。
サンパウロ新聞の翻訳記者にMさんという方がおられ、「移民事業というのは安く始められるけど、結局は高くつくんだよ」と、口癖のようにおっしゃいます。彼の真意はともかくも、これを私なりに解釈してみましょう。 かつての日本からの移民は、実際の現場はともかく、口減らしのための国家事業であったことは認めざるを得ません。余剰人口を外国に送り出せば、失業問題が片付くだけでなく、外国からの送金というプラス面を簡単に手に入れられたのです。
そうして日本が豊かになった現在、「人柱」になった世界各地の日本人を、国内の日本人同様に支援するのは、道義上も当然のことだと思います。つまり、例えブラジルに移民として生きていようが、日本人は日本人であるということです。さて現在、その子や孫がデカセギとして日本にやってきました。この人たちを支援するのは本来、日本とブラジル、どちらなんでしょうね。
確かに彼らはブラジル人です。ブラジル政府が面倒を見てしかるべきという意見には説得力があります。しかし日本政府はデカセギの受け入れにおいて、日系3世までという規定を設けました。その昔、ブラジルがブラジル国籍というものにこだわらずに移民という出稼ぎを受け入れたのに対して、日本政府は日本人の血統を引くブラジル人を選択的に受け入れたのです。つまり、「国籍よりも血統」であり、「広くブラジル人を受け入れた訳ではない」という理屈も可能なのです。ブラジル政府からすれば、「預かった日本人の子孫が母国に帰っただけ」と言えなくもありません。人種で選別された在日ブラジル人に対して、ブラジル政府が大々的に援助を行うということには、ブラジル国内である種の抵抗感情が生まれるかもしれません(今のところはありませんが)。「日本が独自の人種的基準で選んだ日本人の子孫たちでしょ。ブラジル人を受け入れたわけじゃないでしょ。だからそちらで面倒を見てくれよ」とブラジル政府から言われれば、どうでしょう?
現在のデカセギ問題は、はるか昔の日本政府が行った移民政策のツケが、知らぬ間に巨大なものとなって返ってきたと言えなくもありません。私が90年の入管法改正を愚行だと思うのは、「血統という、実は戸籍という紙切れ以外に証明のしようのないもの」を基準とした負の連鎖を、さらに将来に繋げてしまったと思うからです。もちろんこれは単なる個人の考えであり、当時の労働事情や国民感情といった高所からの考えとは、結論が異なるのも致し方ないところかもしれません。「俺の爺ちゃん? 知んない。でもさ、爺ちゃんの戸籍を見てさ、初めて俺も日本人だったんだなって思ったよ。だってそれまで、そんなことゼンゼン知らなかったもんね」。この台詞を、ブラジルのどっかで眠っている爺ちゃんが聞けば、さぞガッカリすることでしょう。だけど私自身も、沖縄出身の爺ちゃんのことを、彼ら同様、ほとんど知らなかったりします。日本で生まれて、日本国籍というだけの日本人のひとり。在日ブラジル人は、そんな私の影法師のように思えてなりません。
2003年4月10日 |
静岡県在住 蛮人堂さん |
うむ〜、ますます目から鱗です(笑)自分の周りにはこんな話が出来る人が居ないので、一人よがりの考えになりがちですが、美代さんの意見を拝見して、また更に考えを深めたいと思っています。有難うございました。 ただ、在日ブラジル人による犯罪の急増に伴い、それによる我々日本人の社会不安増大への危惧、ブラジル人のみならず在日外国人への警戒感の増大を、在日ブラジル人は自分達自身の問題としてどのように考えているのか、是非知りたいものです。
2003年4月11日 |
サンパウロ在住 美代賢志 |
バグダッドが制圧されました。共同通信が配信した記事によれば、「サンキュー・アメリカ」などと市民が歓迎しているといいます。私には、この市民の台詞は、「ギブミー・チョコレート」と重なりました。この記事、本当に共同通信が独自に取材したのでしょうか? 又聞きによる記事という気がします。あるいは米国主導の報道統制か。もしかすると第2次大戦終結当時、日本人は心の底から敗戦を喜んでいたと世界中で報道されていたのでしょうか。もちろん戦後は日本国内においても、米国側に立った視点からの報道で世論が形成され、現在に至っているのは周知の通りです。それは、良くも悪くも「戦争をしたのは一部の悪い日本人だった」という雰囲気まで醸成しました。おそらく私の世代では第2次大戦に関して、現在の自分に関係する歴史のひとコマとして把握している人は、ほとんどいないでしょう。
いつもの前フリはこのぐらいにして。
ブラジル人の犯罪報道というのも、同様の危険性を孕んでいるのだと思います。何しろ、警察発表が中心となれば、日本的視点による報道であり、「迷惑なブラジル人のイメージ」というものを、自分に関係するものとして考えるブラジル人は少ないはずです。日本の警察発表をポルトガル語訳したものであれば、これを読むブラジル人たちの視点も日本人と重なってもおかしくないと思います。
そこで、これまでの経験による想像で代弁してみると、こんな感じです。
「ホント、悪いことをするブラジルジンが増えてきたね。記事によれば日本人も、犯罪の急増を心配しているみたいだ(それは俺達だって心配だ)。こんな奴ら、日本から追い出して当然だね(それは俺達だって賛成)。それでこそ日本人も安心できるし、俺達だって住みやすくなるんだよ。こいつらの責任で、俺達もいい迷惑だ」
それはどこか、日本人にとっての戦争が「よく知らない誰かが勝手に侵略したもの」という雰囲気をにじませるのと同様、俺達の預かり知らない悪いブラジル人が勝手にやってること、という気分。
こうした理由から外国人犯罪に関して、私は一元的かつ徹底したデータ管理で抑制するしかないと考えています。外国人登録証に記載された住所と現住所が違う、同じく、記載された勤務先と現在の勤務先が違う、警察の犯罪データと入管のデータが上手くリンクしていないなど。現在でも問題は山積みです。
転居(賃貸)の場合、管轄の役場において外国人登録証の住所変更をもって最終的な賃貸契約手続きの終了とするといったことや、先の勤務地で勤務先の削除を行わない場合は、別の会社に勤務できない(あるいは何らかの罰則)などできないものかとも思います。私の知っているケースでは、スピード違反でパクられてブラジルに帰国、警察の事務処理(すでに帰国しており罰金の徴収が出来ないこと)が終わってから、再度日本に入国したブラジル人もいます。これなど警察が入管の出入国データにアクセスできず、また警察のデータが入管に伝達されないために発生した問題です。
偽造運転免許証にしても、外国人登録証を手帳のようなものにするか何かで、物理的に一元管理できないかと思います。記載事項の変更のたびに住所や雇用、免許証データを一括照会するようにすれば、少しは抑止効果があると考えます。あくまで素人考えですが。こんなことを書くと、「人権が…」と言う人も多いでしょう。しかし権利には義務が付随すると、私は考えます。
(了)
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