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初心忘るべからず(1) |
2003年5月5日 |
サンパウロ在住 美代賢志 |
大学を卒業してブラジルの新聞社に入社した当時は、まさに右も左も分からぬ1人の人間であった。私はあまり愛想の良い性格ではないので、取材先の人と仲良くなることは少ない。どうしても話を聞かねばならない人とは挨拶を交わすが、それ以外はブッスリしていることが多い。
入社当時、サンパウロ総領事館にIさんという領事がいた。そのI領事は当時、日本語新聞各紙の関係者の間では、評判は最低の部類。いや、館内の現地採用職員からも評判が悪い方であったかもしれない。
そのI領事と私は仕事上、かなり良好な関係になる。ま、記事的には8対2程度の割合で総領事館の悪口だったが。最初のかかわりは、阪神淡路大震災で、私はブラジル兵庫県人会や家族がこの地域に働く日系人の取材をまとめて記事にした。紙面に掲載された日、I領事から電話があった。
「あ、あなたは男性でしたか。それでこの記事は…」
「ブラジル在住者の声ということで。総領事館ももう少し、在外日本人に対する迅速な情報公開、せめて対話があって良いのではないかと思います」
「総領事館からの反論を掲載しないというのは不公平ではないかと」
「別に総領事館を代弁するために記事を作っているわけではありません。今回は、現場からこのような声が上がっているという趣旨です。総領事館はT記者(私の1年先輩の記者)が担当ですが、総領事館から発表できる資料は無いと確認しております。双方の意見を掲載することが必ずしも公平な報道とは考えておりませんが、反論はいつでも賜りますし、それで問題が好転するのであれば、担当のT記者がそちらに取材させていただき、記事を掲載させていただきます」
この領事との関係は、このように実に険悪ムードでスタートした。そのT記者も、「あの領事、えらい怒っとったぞ。そうでなくともあそこはガードが固いのに。俺はいい迷惑や」などと、私にご立腹であった。
その1ヵ月後に総領事館担当となった時、窓口でI領事を呼んでもらっても、「領事が、どのような要件か聞いております」などと窓口に質問させ、会ってくれないことも多かった。他紙の記者も同様のことを漏らしており、これがI領事の評判を悪くする一因だったと思う。それがいつの頃からか、私だけには面会室で会ってくれるようになった。まぁ、閑に任せて1日に2、3回も総領事館を訪ねていれば、それも当然の成り行きか。
「給湯室でお茶でもコーヒーでも、好きな方を淹れていいから。それぐらいは自分でやりなさい。こっち(領事と職員)だって大変なの。その間にこちらも書類の整理をするから」
などと言われるのが常で、今からではちょっと考えられない自由な雰囲気だった。
といってベッタリというわけではなく、このI領事にはその1年後、「いつまでもブラジルで生活できると思うなよ!」などと言われ、ブラジル政府に圧力をかけて国外退去処分にしてやると言われたことがある。「では、どちらが早くブラジルから出て行くか、やってみましょう」と答えたものの、生きた心地がしなかった。そんな話を編集部ですると、
「じゃあさ、国外退去になったら荷物は後で送ってやるから。心配するな!」
などと編集部の超ベテラン編集者に言われた。問題はそんなことか?
それでもこの領事とは、「国益」ということについてよく話を交わした。国益といっても、現場レベルでどのような手段を講じれば、外交政策上の効果が高まるのかと言ったことであるが。この点で共通認識があったからか、領事館の叩き記事を掲載しても、関係が個人的なレベルで対立することはなかった。互いの目標は同じ、という認識である。
だから、総領事館の批判記事が紙面を飾った日は、必ずI領事と意見を交わした。「反論があれば、いつでもどうぞ」というのが、私のスタンスだった。思えば、ペーペーの若造だった私は、こうして色々な人から教育されてきた気がする。
(つづく)
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