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カーニバルで考えた |
2003年3月24日 |
サンパウロ在住 美代賢志 |
毎年のことながら、カーニバルの取材は気が重くなる。取材許可証を発行してもらうのも手間なのだが、一番の問題は、許可証が発行されてからカーニバルの行進が始まるまでの駆け引きなのだ。
我々のようなジャーナリストに対しては例年、取材許可証はカーニバル開幕の前日に発行される。以前のサンパウロのカーニバルでは、注目度がリオより数段劣っていたからか、許可証の発行を受ければすべては解決であった。が、最近はそうも行かなくなった。
もともとは、取材許可証を悪用して一般の人(といってもマスコミ関係者やエスコーラ・デ・サンバ関係者の友人など)がフリーパス状態で会場に入ることに問題があった。それで締め付けが強くなり、さらにカメラマンに関しては、花道横からの撮影に限定される人と花道内部への立ち入りが認められた人に分けられるようになる。
最初にこの制度が導入されたのは、私の2回目のカーニバル取材となる1996年である。
「マスコミ担当の責任者の話では、お前の場合は花道への入場許可がなくても、入れるから。問題があったら責任者の○○氏に言え」
と、ポルトガル語の編集長に言われた。
ところが、当たり前だけれどもそんなことはなかった。だいたい、警備担当者にそんな話が伝わっているわけがない。「マスコミの担当の責任者から入構許可はもらっている」という私と、「そんな特例は聞いていない」というゴッツイ警備の責任者と、まさに掴みあいだか殴り合いだかになりかけた。この時は、大勢の警備員とカメラマンが間に入って事なきを得た。この時に率先して仲裁をしてくれたのが、現在はロイターのカメラマンをしているカルロス氏であった。取材の分野が違うため、ほとんど数年に1度しか取材現場で顔をあわせないが、それ以来、顔をあわせるとお互いに覚えていて、会わなかった期間の会話をいろいろ交わす間柄である。
さて。
どうなっとるんじゃ!と、怒り心頭に達した私は、マスコミ担当の部屋に行った。
「許可証のことで責任者の○○氏と話したい」
と、理由を説明して担当者に話したところ、
「忙しいので会わせられない。許可証は、希望者に配布したのでない」
という。
「なに? 俺も希望者じゃ。配布せい!」
「すべて配布したのでありません」
「希望者にばら撒いたのは、それはそちらの勝手じゃ。俺の問題じゃないので、そんなことは知るか。配布するのなら、すべての希望者に配布するのが道理やないか! もし、われが問題を解決できへんなら、この問題を解決できる立場にある人と話をしたい」
などとやり合っているうちに、当時はオーパ(現ブンバ)誌でカメラマンをやっていたKカメラマンが「つまみ出された」と言ってやってきた。そこで彼を誘って、2人で交渉することになった。そこで散々に理屈をこねていると、1枚なら確保できたと言って、交代で使ってくれと持ってきた。KカメラマンがOKと言いかけたのを制して、さらにごり押しした。
「同業他社で譲り合える訳がないやろ! 早よ、もう1枚持ってこんかい!」
さすがにKカメラマンはビビって、俺は1枚を交代で使ってもいいよ、という。
「まあまあ。1枚あるっちゅうことは2枚あるはずよ」
そして案の定、5分ぐらいしてもう1枚「でてきた」。「誰にも言わないでください」と、念押しされて渡された。
すべての行進が終了した後、たまたま話していたインターナショナル・プレス(IPC)のエリオ記者(当時)が件の女性担当者に、「この日本人は俺の友達で、エエ奴なんだ」と声を掛けた。その時の担当者は、「ホント、エエ人ね」と半泣きであった。
その年以降、取材許可を得てから入場許可を得るのが一苦労なのである。しかも、カーニバルの前日夕方に許可証を得て、翌日夜までの行進開始までに取得しなければならない。まさに綱渡り。
2003年も、何とか花道への入場許可証を取得した。入場許可証が発行されたのは大手の日刊紙ぐらいで、まさに特例に近いものであった。初日の夜、側道にすら入れなかったニッケイ紙の記者から「どうやって手に入れたんですか?」と訊かれたが、いくら後輩の質問といっても、そうそう手の内を明かすわけには行かない。詳細は書けないが、当然ながら96年のようなゴリ押しで取得したのではない。
それにしても今年の取材許可は、当たり前だがほとんどすべてを独りでこなしてヘトヘトになった。従来なら、取材許可申請書類などをポルトガル語編集部などに任せ、申請書類を持っていったり許可証を受け取る時だけ出向いていたのである。
今年もカーニバルの前日に許可証を取りに行ったところ、大勢のカメラマンが待合室に座っていた。ロイターのカルロス氏がいたので挨拶し、「行列?」と訊いたところ、「一部の許可証はまだ、印刷所から届いていない」という。「俺の場合、先日までベネズエラに言ってたから…駄目なら駄目で、骨休みになるからいいんだけどね」とおっしゃる。そして私の許可証も、不安的中でまだ、マスコミ担当窓口まで届いていなかった。
そこでニッケイ新聞のポルトガル語編集部に電話をかけてみると…「あ、俺たちはもう、もらったよ」という。あちらも遅れていれば、翌日に彼らにまとめて受け取りに行ってもらおうと思ったのだが、残念。しかし耳寄りな情報を教えてくれた。「入場許可証はもらったか?」と訊いたところ、「今年は2種類あるぞ」という。花道の側道まで行けるものと、花道内部に入れるものがあるのだと言う。
この情報をぼんやり考えながらマスコミ担当窓口に戻ると…。マスコミ担当の責任者が出張って電話中であった。相手は、「期間内に申請して、なぜまだ許可証が届かないんだ!」と、怒鳴っている様子。責任者は、「契約した印刷所から来ないのだから、そんな風に裁判だの何だのとこちらに圧力をかけられようが、配布できないものは配布できない。無いものはないのだから。最悪、明日まで待ってくれ」などと言っている。ブラジルのマスコミがそこまで怒鳴り込む可能性も少ないし…、まさか、この時期だけ日本から毎年やってくる「ブラジル通」カメラマンじゃないだろうな? 10分以上もやり取りしているのを横で聞きながら、ふと思った。
確かに理屈の上では、この日の午後2時以降、許可証が配布されることになっていた。しかし、無いものは無い。印刷所も、当日午前までにすべてを印刷して渡す手はずになっていた。だから責められるなら、印刷所か。とはいっても、責めたところで印刷の遅れはどうしようもない。電話をかけてきて、もちろんそれは正論なのだが、理屈をこねて圧力をかけたところで、どうなるものでもあるまい。96年の私は小理屈をこねてごり押ししたが、ハッキリ言って後味の悪いものであった。まるでイラクに対する米国の態度。先進国の理屈ですべてを裁断するのに似ている。あるいは大航海時代、西欧列強が東洋諸国に示したような尊大な態度か。
さて、この責任者に印刷所の見通しを聞いてみると、実は私の許可証はすでにできており、事務所で別枠で保管されているという。早速手にとって確認すると、「側道への許可」となっていた。何としても、花道への入場許可を取らねばならない。何しろ、エスラビさんの麗しい姿を写さなければならないのだから(もちろん、それだけじゃないけど)。この時すでに午後7時で、翌日にパレードが始まるまで残り27時間あった。ただし、これまでの経験上、正味の交渉時間はこのうち3、4時間しかない。そして「花道内部への許可」を手にしたのは、行進開始20分前。この間の交渉で、マスコミ担当者とはすっかり仲良くなっていた。
進出企業の人に時々、「どうしてブラジル人ってこうもいい加減なんでしょうね」とブラジルのあり方を批判する声がある。先進国的な正論から、ブラジルの有り様を一刀両断に判断するのもひとつの考え方で、この正論をこね回して圧力をかけるなり、道を通すのは難しくない。単に、「如何にあらねばならないか」というのを「先進国」的立場から論じて、返す刀で、相手方が如何にこの理論から外れているか、転じて如何に劣っているかを一方的に論じるのである。話し合いを装いながら、実のところは相手の反論に答えていない、という議論に持ち込むだけの交渉術があればOK。あるいは英語で相手を圧倒するという手もある。もちろん、微妙な反論には「何を言っているのか、ポルトガル語が分からない」と突っぱねる。よほど深刻な問題でもない限り、相手は馬鹿らしくなってイエスマンになってくれるだろう。
しかし、時間をかけてでも、相手の出方に柔軟な態度で臨むのもひとつの方法だと思う。筋道を通すなら、私の取材許可はカーニバルの花道の側道に限定されていた。写真も、望遠レンズを多用したものに限られただろう。契約や理屈といった道理を進むだけなら、良くも悪くも脱線のしようが無いのである。決められたコースを平穏無事に歩くのを望むならそれも良し。しかし少なくとも私は、そんな生活のためにブラジルに来たのではない。
ちなみに米国によるイラクへの攻撃では、ブラジルの上院はイラクと米国双方の大使を召喚して公聴会を開き、双方の主張と意見に耳を傾けている。この公聴会で両国大使の意見を戦わせる予定であったが、米国大使が(同時)出席を拒否した。こうした流れを踏まえた上で、ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ大統領は、米国に対して戦争に反対する声明を発表している。米国とイラクが国連を無視する状態にあって、有名無実な国際会議ではなく、国内に公正な判断をするための機会と舞台を求めるという柔軟な態度は、ブラジルの誇るべき文化であると思う。
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