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邦字新聞応援歌 文化の支援ってナンだろう?

2002年12月24日

サンパウロ在住 美代賢志

 ブラジルにはかつて、邦字(日本語)新聞が3紙あった。現在はサンパウロ新聞とニッケイ新聞の2紙で、まとめて邦字2紙と呼ばれたりしている。実はこれ以外にも、ブラジル経済報知なる新聞がある。日刊どろこか(たぶん)不定期刊なのだが、「新聞エンマ鏡」なるコーナーがあって、邦字2紙のふがいなさぶりをチクリとやったりしてなかなか面白い。私の大先輩にあたる、田村吾郎氏の手による新聞である。私がインターネットなどという、ほとんど金のかからない方面でモノを書いているのに対して、氏は依然として紙媒体で活躍されており、まことに頭が下がる。

 この田村氏と話していると、「近頃は、あんまり書くと本当に新聞社がつぶれそうやからなぁ」などという発言があった。それもあってか、かつてのようなバッサリと切り捨てるような文章がこのところ、すっかり影を潜めていた。

 すると。12月2日号には、「読者一般に新聞という存在への再認識、理解と支援を求める」などと、邦字2紙の応援歌が滔滔と綴られていた。田村氏は外務省筋と商工会議所筋に、邦字紙存在の必要性に理解を求め、サポートの如何について問いただしてみたそうである。外務省筋(つまりサンパウロの領事館ということか)はにべも無かったが、商工会議所のほうは前向きな返答があったそうだ。

「これでめでたし!」

 となれば、話は簡単だ。しかし新聞というのは、企業であるとともに文化でもある。もちろん、キロいくらで買い取られてゆく単なる新聞紙(しんぶんがみ)でもある(さすがにトイレで、クシャクシャっとしてオシリを拭くという人はもう、ブラジルにもいないだろう)。企業というのは社会から利益を上げて、その利益(あるいは会社の存在というもの)が社会に還元されるものでなくてはならない。社会への還元、それが文化と呼ばれる。その観点から邦字新聞を見た場合、どうであろう。

 新聞というものの社会還元の第1は、「記事」に違いない。時宜を得た情報、それにオピニオンなど。

 第2は、「広告」である。こちらも内容とタイミングが大切だ。

 サンパウロ以外で過ごされた方ならご存知だろうが、この2点で邦字新聞(とくにニッケイ新聞)は、社会への還元が困難である。何しろ、サンパウロ市を少し離れると、新聞は数日送れて配達される(サンパウロ新聞はほぼ即日配達)。こうした地域では、書かれている記事は新聞どころか旧聞だ。広告も同じで、いつ手元に届くか分からない新聞に、タイムリーな広告など考えられない。さらに全国紙であるから、地方の地場企業などにとっても、地域密着型の広告効果が期待できない。こうした理由からかどうか、ニッケイ新聞は紙面が古くなりにくい連載に力を入れるなど、努力しているようだ。

 商工会議所がこうした新聞社を「支援」する場合の、日系社会あるいはブラジル社会に対する還元とはどのようになるのだろうか。新聞を維持・発行させるということ自体、たしかに充分な名義だろう。その方法は、(恐らくは費用対効果の低い)広告という形の支援になるのだろうか。もっとも、発行さえすればよいというものもないだろう。商工会議所が大部数を買い取って古紙として売り払ったのでは、文化といえない。

 ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ次期大統領は、次期政権の目標の筆頭として飢餓(貧困)対策を挙げた。具体的な展開は未定だが、この手の支援はこれまで、多くの失敗を重ねてきた。フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ大統領がこの8年で、貧困家庭への支援と貧困家庭の子供の強制就学という形で、何とか就学率の引き上げという成果を出した程度である。なぜ失敗するのか。ブラジルでは、次のような表現で説明されている。

「漁師を支援するために魚を与える」

 漁師が本当に必要としているのは、日銭を稼ぐための魚を恵んでもらうことではなく、安定した漁を行うための漁具と知識なのである。貧困対策も同様で、貧困家庭が必要としているのは当座の現金や食料ではなく、それを継続的に得る自活手段であり、そのための技術なのだ。効果に対して不相応な金額の広告という支援をすることは、果たして吉か凶か。

 日本政府が行った「公的資金の注入」にも思ったことだが、私はこういう場合、つぶれるものはつぶれてかまわないと考える。「そんな無責任な!」と憤慨される方もおられるだろう。しかし私がこうして新聞社外にいるのも、その「Xデー」に臨んで新聞社外から応援するためである。

「海外の日本語新聞という文化を、有志が集まって存続させねばならない時代が来る」

 これが私の持論である。そのためには、新聞社からオマンマを貰っていては支えられない。編集機材も、すべて自前で揃えておかねばなるまい。新聞社の資産を差し押さえられたらどうする? それからアタフタしても遅すぎる。没収されたその日に、代替機材を購入できるか? 入手しても、その機材に習熟できているわけがない。ひと昔前は年に数回、財務局の検査官がやって来ては、新聞社内のめぼしい物品の所有権の帰属を確認していたものである。新入りだった私は、こういう時に限って自前のカメラやレンズを机に並べて清掃中だったりして、会社の借金のかたに没収されるのではないかとドキドキしたものだ。

 当時の月給をはるかに上回る価格のフィルムスキャナーやデジカメ、そしてフラットベッドスキャナも、そうした有事を想定して個人で買い揃えた。デジカメの急速な低価格化と普及によって、現在ならフィルムスキャナーなど不要だろう。しかしこれを購入した動機は、「今日、編集部が閉鎖させられても明日の新聞は発行させる」という、強迫観念に近いものであった。現在、我が家の機材で新聞発行に足りないのは、印刷工程を除けば版下用のレーザープリンターぐらいだ。しかしこれも、ファイルを直接印刷所に入稿すれば良いだけの話。新聞社役員のY氏からは、「新聞社の安月給では、戻るのは嫌か」などと嫌味のような冗談を言われ続けているが、現在の生活の方がよほど、不安定で将来に何の保証もない。しかも新聞社の人たち以上に極貧生活である。

「後続移民の来ないこの時代に、ブラジルに永住する気概を持って、新聞社を支えようと燃えているんですよ。なのに社の人たちは僕たち若い記者を、正当に評価してくれているんですか?」

 先日、某邦字新聞の忘年会にお呼ばれした折、給与などの待遇面で若手記者が、そのY氏に食って掛かった台詞である。沈没しようとする船内に残って水を掻い出すという心意気は、確かにすばらしい。しかしその他の手段を検討した結果の行動か? もっと大きな船を自分で作って、新聞社という小船を掬い取るという方法はどうだ? 自分の人生を掛けるのは、新聞社という会社(船)の将来なのか、あるいは海外の日本語新聞という文化事業(航海)の将来なのか。それを考えぬいた上での行動か? もし単に記者をしたいだけなら、なぜフリーとして独立したり、日本の新聞社に就職しない?(もちろん、日本語新聞の記者の中には、日本の新聞社を辞めてまでやってきた人もいます)

 気概を持って有事に備えようではないか。それは他人任せに燃えるというものではない。燃焼するためのモチーフ、そして目的達成のための手段を可能な限り、自己の中に持つべきだ。そうして初めて、文化というものを支えることができる。バブル時代に横行した「企業による文化支援のバカらしさ」を、我々は見てきたのではないのか? 自分の運命、そして今なお大勢の人が手元に届くのを楽しみにしている海外の日本語新聞の運命を、他人に預けるのはよせ。

 クリスマスイブだというのに今回は、いつにも増して嫌味な文章になってしまった。ということで、口直しにこの写真。サンパウロ市民にはおなじみの、レアル銀行のクリスマス飾りです。銀行内部に、フリーパス状態で入場でき、大人から子供まで家族で楽しめるように工夫されています。さらにクリスマスカードや子供用のちょっとした教材的な冊子を、サンタに扮した社員らが無料で配布しています。その姿勢は、賞賛されるべきもの。企業による社会貢献も、ここまでくるとさすが、という感じです。写真をクリックすると大きな写真(約180KB)が別ウインドウで開きます。

クリスマスの飾りつけ

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