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ブラジル音楽の心 − エリス・レジーナ(2)
2002年9月25日
ブラジル音楽研究家 広瀬秀雄

 エリス・レジーナは、このとき本格的に音楽デビューしてから5年、各種の音楽祭での優勝やテレビの人気番組の活躍などで若手女性歌手No1の地位にいた。そうした前知識なしにショーを始めて観て感動した私にとって、その後エリス・レジーナは最も好きな歌手としてまた、ブラジル音楽を好きになる重要な一部として存在するようになった。

 エリス・レジーナの魅力は、その抜群の歌唱力だけでなくブラジル音楽という簡単にはひとつにはくくれないが、それでも相対的に呼ばれている音楽に共通してある魅力と重なり合って部分が多い。その魅力について語る前にエリス・レジーナという近年ブラジルが生んだ最大の歌手の経歴を記そう。

 エリス・レジーナは1945年3月17日、リオ・グランデ・ド・スール州のポルト・アレグレ市で生まれた。母はポルトガル系2世、父はインディオの顔つきをしたブラジル人で、ガラス工場に勤めていた。

 小さい頃から歌が好きで11歳の時に地方局のラジオ歌番組の専属となり、14歳の時ラジオ局とプロ契約し、18歳の時、父親と2人で本格的な歌手を目指してリオに行く。

 リオでは夜のショーの世界でたちまち人気者になり、リオやサンパウロのテレビ局とも契約を結ぶ。さらに、各種コンサートにも数多く出演、1964年度に最も活躍した歌手に選ばれた。その都市の活躍は衝撃的ともいえよう。

 翌64年第1回ブラジル音楽祭でエドゥ・ロボ作曲、ヴィニシウス・デ・モライス作詞の「アラストゥン」で優勝、さらにサンパウロのパラマウント劇場でのジャイール・ロドリゲスとの共演がレコード化され、”ドイス・ナ・ボッサ”として売り出されたのが大ヒットし、若手人気歌手の地位を不動のものにした。

 1,965年頃から70年代初頭にかけてブラジルでは国内及び国際的な音楽祭が数多く催され、有能な新進作曲家、作詞家、歌手が世に出るきっかけを作った。ざっと名を挙げても、シコ・ブアルキ、エドゥ・ロボ、ジルベルト・ジル、カエターノ・ヴェローゾ、ミルトン・ナシメントなど現在は国際的に知られたアーティストがこぞって参加し、賞を分けている。

 リオの国際音楽祭に日本から坂本九や中村八大が参加したのもこの頃であった。

 こうした催し物で新進アーティストと知り合う一方、エリスはヨーロッパでレコーディングやショーを行い、賞賛を浴び国際的にも名を知られるようになる。特にパリのオリンピア劇場では68年に劇場始まって以来、1人の歌手による3月と10月の年2回の公演が成功し、10月の公演では8階ものカーテンコールを受ける程の人気だった。

 プライベートな面では、67年に16歳年上の彼女のショー演出家ロナルド・ボスコリと結婚した。エリスとボスコリはかつて大ゲンカして分かれたが急激な再接近の後、ボスコリの「この家を買ってくれたら結婚してもよい」という言葉をきくやいなやすぐ家を買って結婚式を挙げたというエピソードが示すように、エリスは直情型の女性といえよう。

 2人は72年に離婚するが、知性的なボスコリとの生活と交友関係などからエリスが得たものは、決して少なくなかったといえよう。

 しかし70〜72年頃までのエリスは私生活では出産、絶えまない夫婦ゲンカなどが歌手活動にも影響したのか、ショーなどでも今ひとつ精彩を欠いていた。73年のサンパウロのアニェンビーのショーでは観衆に野次られ、同じ舞台にいたカエターノ・ヴェローゾが「我が国最高の歌手に敬意を払え!」と怒鳴り返す場面もあった。

つづく

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