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あぁ恥ずかしや、「食われ妻」の話 |
2002年3月15日 |
サンパウロ在住 美代賢志 |
元来、言葉は生き物であるといわれる。
であるからして、ブラジルにおける移民の日本語と、日本の日本語とが異なる発展を遂げても不思議ではない。だいたい、日本国内においても、若者とお年よりの言葉はまるっきり違う時勢である。
ブラジルではもうひとつ、ポルトガル語の日本語訳という部分に独自の進化が見られる。例えば、「テツボク」と言えば「鉄木」であり、「 Pau Ferro 」の訳である。
名前のようにこの木は大変に硬く、処女林を切り開いていた時代(といっても今から60年ばかり前ではあるが)、この木が生えているといないとで作業の進展がずいぶん異なったという。何しろ、斧があたると「キーン」と金属音がする上、すぐに斧が欠けて切れなくなる。父親が斧を振る横で小学生ぐらいの息子が別の斧を研ぐ姿は当時、どこでも見られた光景のようである。この木は、水にも浮かない。ファゼンデイロ( fazendeiro =大農場主 )が好んでこれを求め、鉄条をめぐらす柱にしている。何の処理もなく土中に立てても、数十年と腐ることはない。
リベルダーデの土産物屋では現在、この鉄木を木刀に加工したものが売られていたりする。
さて、カーニバルの秋になると咲く花がある。紫色の小さな花が寄り集まり枝振りの良い木に咲く様は、なかなか壮麗だ。ブラジルでは俳句の季語にまでなっているほど馴染み深い。名を「クワレヅマ」という。
ブラジルに来て早々ということもあって、この名前を知ったときの衝撃はかなりのものであった。で、今でも頭にこびりついている。とにかく「食われ妻」という名前のあまりの迫力に、由来を聞きそびれてしまったほどだった。
ある時、当時勤めていた日本語新聞社の編集部で、写真結婚の話になった。別名に、呼び寄せ結婚とも言われる。ブラジルの初期移民は、多くが家族移住だったので、配偶者に困るということはなかった。しかし時代が下って戦後、単独(独身)移住が増える。そのほとんどは男性であったから当然、女性が不足する。写真結婚とは、文通や写真を通じて、不足する女性を日本から呼び寄せようというものであった。
日本側で新婦は、新郎の家に出向いて新郎の写真と式を挙げるのである。1950年代後半から、こうした結婚が多く行われた。そして新婦は、船旅でブラジルにやってきたのだ。40日前後の船旅を終えるころには新婦は、すっかり透き通るような色白になる。そしてブラジルに着いてみると、岸壁で出迎えた新郎は日々の畑仕事で真っ黒に日焼け、まるでサル同然に見えるのも無理はない。新婦が白いだけに、そのコントラストが強烈なのだ。甲板上から埠頭を見下ろして驚いた新婦が下船せず、そのまま帰国したという話もある。
「当時の男性は苦労したんですねぇ。そうするとクワレヅマってのは、そんな逸話と関係あるんですか? だってすごい名前ですよね。食われちゃった妻なんて」
この私の質問に、普段は謹直な年配の編集者が破顔した。
「綴りは知らないけど、クワレヅマというのはポルトガル語だぞ。それにしても、すごい連想をしたもんだな、君も」
「エェ〜!」
調べてみると確かにあった。quaresmaと言う。とすればカタカナ書きは、クアレズマではないか。ラテン語ではquadragesimaと書く。勘の良い人なら、ここで合点がいったはずである。つまりクアレズマの本来の意味は四旬節、カーニバルから復活祭までの期間を指す。その期間に咲く花の、つまりは主役といえようか。
ちなみに写真結婚は戦後、力行会がいち早く取り入れている。が、なんと言っても白眉は、1955年に移住の始まったコチア青年だろう。ブラジル各地の農場に入耕したコチア青年は総勢2508人、いずれも入植時は独身である。独身男子によるこの組織的移住は世界の移民史において、空前絶後の規模である。
リベルダーデ区、いわゆる東洋街にあるクアレズマ |
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