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ララ物資 日系社会も大きく貢献
2002年6月26日
サンパウロ市在住 美代賢志

 1995年4月4日付パウリスタ新聞記事の字句を一部修正、注釈をつけて掲載しました。

戦災日本人を救援 −日系人大会シンポジウムで網野氏が意見発表−

 今年(1995年)の海外日系人大会(主催・海外日系人協会)では、戦後50周年にちなんで記念シンポジウムが併催されることになった。そのテーマは、「懸け橋としての海外日系社会の役割」。パネリストのひとり、網野弥太郎ブラジル日本都道府県人会連合会会長(当時)は、戦災日本の救援に大きな手を差し伸べたララ物資について、日系社会の果たした貢献ぶりを力説してくる。当時の資料を調べるなかで戦後移民の網野氏自身も、勝ち負け抗争で騒然としていた最中にあっても、膨大な物資を送り届けていた先輩たちの祖国愛に心を打たれたと話している。

「今の金額で約3億円にも達する物資を送った」と網野氏

 「――日本の国内物資は極度に消耗され、戦後の国民生活は飢餓線上にあるようにうかがわれ、誠に痛心に耐えません。これを想う時に伯国にある私たちは平穏と幸福を感謝するとともに一致協力、その資力を集めて日本戦災の同胞に救援の手を伸べなければならぬと存じます」。これは、ブラジル赤十字の認可を得た日本戦災同胞救援会(オルランド・ソアレス・デ・カルバーリョ本部会長)が1947年6月、日系社会に呼びかけた「日本戦災同胞救援運動趣意書」の一節だ。同会はリオデジャネイロ市に本部を置き、ブラジル全国に30支部を擁した。中でも日系人の多いサンパウロ支部が、積極的な活動を行う中心となった。

 この呼びかけから1950年9月末日までの約3年間で集まった義援金総額は、571万7000クルゼイロ余りに達した。網野氏が当時のレートで円換算したところ、約650万円。「今の金額にすれば、2億8000万円ほどになろう」(網野氏)という募金は、5万家族といわれた当時の日系人口の1割からの浄財であった。残り9割の大半は当時、「日本の戦勝」を信じて救援物資などを送る必要はないと考えていた。

 敗戦ドイツの救援に乗り出したドイツ移民に刺激されて募られたこの日本移民による義援金は、サンフランシスコの日本難民救済会を通じて物資を購入、ララ物資(公認アジア救済)として日本に送られた。6回に及んだ船便で輸送された物資は、粉ミルクやうどん粉、砂糖、古着などが主だった。物資によってはブラジル国内で買い求められたものもあったようだと網野氏は言う。

 ララ物資にはアルゼンチンとペルーの日系人も協力している。そしてブラジルでは、このほかに個人的にケア組織(欧州救済共同体)を通じて物資を送った人も多かった。高野芳久元県連会長もそのひとりで、「砂糖やカフェー(コーヒー)など、数キロ送ったことがあった」と述懐している。

 5月11日に東京・千代田区の砂防会館で開かれるシンポジウム「懸け橋としての海外日系社会の役割」のサブテーマは、戦後50年にちなんで「夢と希望、汗と涙の海外移住」、そして「日本を助けたララ物資」である。このシンポジウムでは、作家で評論家の上坂冬子さんと猿谷要・東京女子大名誉教授が基調講演を行う。網野氏はブラジルを代表し、パネリストのひとりにつく。

 網野氏は、これまで日本では米国だけからの救援と見られがちだったララ物資に、ブラジル日系人も参加して大きく貢献してきたことを力説したいと話している。「戦後50年もすると、ララ物資自体知らない人が増えている。ましてブラジルのコロニアが懸命に救援活動にあたったことなど、一般はほとんど知らないでしょう。これを機会に“このようなこともあったのだ”と広く伝えていきたい」と、網野氏は話している。

勝ち負け抗争戻る
 情報の絶たれた在ブラジル日本人移民が終戦直後、日本は勝ったとする「勝ち組」と日本は負けたとする「負け組」に分かれて死者、逮捕者を出す抗争を繰り広げた事件。大本営発表の短波放送をすべての情報源としていた日本移民にとって、日本が敗戦するということはまさに想像を絶する出来事であった。また敗戦の詔勅放送が聞き分けられるほどには届かなかっこともあり、当時の日系社会の9割が勝ち組だったとされる。日本の敗戦を公言する負け組は、勝ち組にとって「祖国を裏切った者」として暗殺などの対象にもなった。

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