ブラジルに来てからかれこれ8年、初めてのことであったが朝寝をする機会を得た。というか、失業したのであるが。
そして土曜や日曜が突然、閑になったのである。
別にこれまでの仕事でも、(信じられないことに)休日の取材はほとんどなかったのである。が、次の週の企画を考えたり料理をサイト向けに作ってみたりと、どうも考え事に忙殺されていた気がする。これがなくなったのが大きかったようだ。
何しろ、テレビアニメを見ていたのだから、今考えてものんびりしている。しかもそれは、日本が(というか作者が、であろうか?)世界に誇る「ドラゴンボール」。最後に「Z」がつくシリーズのようだ。もちろん悟空を始めとする登場人物たちは、ポルトガル語が私より達者である。
「あれ?」っと思ったのは、神様が出てきた時だ。しかもKamissamaと、そのマンマの呼び方である。
ポルトガル語で神様はDeusだけど、全国ネットのテレビで翻訳しきれなかったというのもおかしい。と一瞬こそ思ったが、当然であった。
カトリックにおいて神様は、唯一絶対の存在である。日本のように八百万の、つまりは伊勢の神様にはじまり出雲の神様、諏訪の神様、果ては便所や草履、パンツの神様まである神道とは一線を画している。
こう書くと、「何を、ブラジルにはサッカーの神様ジッコがいるではないか」と憤慨される方もいるかも知れない。だが、誰が使い始めたのか知らないが、この呼び名は日本国内でしか通用しない。身近なブラジル人に、「ブラジルでジッコは、サッカーの神様と呼ばれているの?」と、尋ねてみればよい。100人中100人、次のように答えるはずである。
「馬鹿な。あのペレーでさえ、王様なのに」
ジッコはブラジルでは、単なるジッコ。ま、せいぜい「黄金の雄鶏」と呼ばれる程度だ。
それほど、Deusは絶対視されている。
であるからして、唯一絶対の造物主とはいえない「神様」をDeusとは訳せないということになったようだ。確かに、通訳をしていても神様の訳は常に、頭の痛い代物である。
と、思っていたら先日、サンパウロに鎮座まします「南米大神宮」の宮司さんも、ブラジル人への説明が難しいというような話をされていた。一方でブラジルの仏教にはそのような悩みはないと思う。何しろ仏教には、神様が存在しないのだから。写真は毎年4月、東洋街(リベルダーデ)で行われる花祭り。今年ももうすぐである。
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東洋街における4月の恒例行事、花祭り。非日系の子供たちも参加する |
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